ほんとうのヴィクトリア・ピーク

 一緒にトラムから降り立った観光客の大部分は、タワー東側に100mほどの展望台やショッピングセンター「ピーク・ギャレリア」に立ち寄り、ここで満足して引き返していく。しかし、それでは「徒然草」に出てくる、せっかく石清水八幡宮に参詣に出掛けながら麓の寺社を回っただけで山の上の八幡宮に参拝しなかった、「仁和寺の法師」のようなものだ。本当のピークはさらに燃えるように赤いデイゴ(象牙花)が咲き乱れるマウントオースチンロード(柯士甸山道)を30分足らず登ったところにある。
 時間に余裕があれば、タワー西側の山荘風のレストラン「ピーク・カフェ」にも立ち寄りたい。高い吹き抜けの天井に大きな扇風機が回っていて、いかにもリゾートらしい雰囲気。が、店内よりも、展望が広がる西側のテラス席がお勧めだ。
 さて、柯士甸山道は山頂駅西側から始まる。標識板が立ち、いかにもそれらしい左右の道は山腹をぐるりと一周する遊歩道。約1時間のこのコースは、途中、断崖絶壁の真下に超高層ビル群が建ち並ぶ豪快な景観も楽しめ、散策にはうってつけだ。ピークへ向かう柯士甸山道は真ん中の坂になっている道だ(4)。ひんぱんではないまでも車の往来もあるため落ち着かないが、5分も歩けば、市街地の喧騒とは打って変わった静寂の世界。鬱蒼と繁った原生林の中にちらほらと家並も見えるが、いずれも穏やかに自然の中に溶け込んでいる。
 やがて左手に芝生と色とりどりの花壇が広がる。ピークガーデン(山頂公園)だ。かつて香港総督の避暑のための山荘が建てられていたという場所だけに、いつの間にか下界からの熱気が失せ、爽やかな風が頬をなでる。坂を登り切って東屋が見えたら、山頂はすぐそこ。駐車場の横を通り抜けた先にある吹き抜けの東屋は山荘の跡だ。この周辺からの眺望は最高。片側を山に遮られていた頂上駅近くの展望台とは違って、360度に広がる超ワイド版。ここに立つと、香港島西端のマウントデービス(摩星嶺)、イーストラマ海峡の向こうに発電所のあるラマ島、無数の船が浮かぶウエストラマ海峡とチョンチャウ島やランタオ島などが一大パノラマとなって眼前に迫って来る。香港で夕日を見るなら一番、と言われる展望台だ(5)

あの「美しい丘」はどこに?

 しかし、標高552メートルの、香港島で一番高い山頂はここではない。北側の電波送受信基地となっている高台だ(6)18世紀末から19世紀初めにかけて、1,000艘の船と部下を引き連れて、香港一帯の海を支配していた張保仔(ジョンボウチャイ)という海賊の頭領が、勢力を誇示するためにここに自分の旗を立てていたという。それが広東語の山の名前の由来でもある。
 香港島の北半分は開発の極みでもある超高層ビル群、それと接していながら南半分には鬱蒼とした亜熱帯林が広がり、大地を覆っている。このアンバランスは香港の妙の一つでもある。
 ところが、ないのである。『慕情』の二人が手を取り合って逢う瀬を重ねた「病院の裏手の美しい丘」が見当たらないのだ。もちろん、撮影の日から40年余り、開発が進んで地形が変化したこともないわけではないだろうが、なだらかな芝生の斜面が広がり、その中央に大きな木がそびえ立つ丘は、ヴィクトリア・ピークのどこを探しても見当たらない。ビデオを繰り返し点検し、「丘」の背後の景色から判断すると、どうやら「丘」のロケ地はヴィクトリア・ピークではないようだ。