ザ・リパルスベイの前庭で

 さて、往時をしのぶには、前面が波状の曲線を描くカラフルな高級マンション、ザ・リパルスベイの前庭に立つと良い。懐かしい一本の大木が目に飛び込んでくるはずだ、スーインを優しく待ち受けたマークが、いたずらっぼく長身を潜ませた、あの「美しい丘」の木である。そして、木の周辺は、建物が追って地形が大きく変わってしまってはいるが、あの「美しい丘」そのものなのである。やはり、前に推測した通り、ヴイクトリア・ピーク周辺を擬した「美しい丘」は、ここで撮影され、ピークから見下ろした風景とつなぎ合わせていたのだった。
 頂上周辺に「丘」が見当たらないのは当然だった。思えば、映画『慕情』もまた、香港の“古き良き時代”を象徴しているのだろう。「美しい丘」も、時代の移り変わりの中で表舞台から消え去る運命にあると言える。
 ところで、ザ・リパルスベイの南面の浜辺は、香港で一番人気のある海水浴場だ。映画では、二人が人気のない浜辺で口づけを交わし、誰もいない海に泳いだ場面が印象的だった。しかし、毎年3月から11月ごろまでの海水浴シーズンには、そうしたロマンチックな静寂など嘘のように人、人、人でごった返す。スーインとマークのように泳いで訪ねる友人の家はなくとも、気候が許せば思わず飛び込みたくなるような青い海だ。

「太白」レストランへ

 『慕情』をめぐる“映画散歩”の締めくくりは香港仔(アバディーン)の水上レストランでの食事が良いだろう(8)。香港仔は今、高層アパートが林立する新興住宅地の趣だが、40余年前は水上生活者たちがひしめく漁村だった。その名残は今に伝わっており、観光用のサンパン(小舟)で湾内を回ると、水上生活者たちの暮らしぶりを垣間見ることができる。
 スーインとマークが初めて食事を共にした水上レストランは、この香港仔の湾内に浮かぶ台船上にしつらえた海鮮料理の店。当時からほんの少し場所を移したが、3軒が派手な中国風建物の軒を連ね、夜間はこれまた、派手なイルミネーションで客を迎えている。対岸からシャトルボートを使って往復するのだが、暗い海を渡ってきらびやかな世界に入って行くと、何やら心が時めいてくる。
 実は3軒並ぶレストランのうち、現在は宴会用に使われている、寂れた感じの右端が『慕情』に使われた「太白」レストラン。かなり手を入れてあるが、ほぼ当時の雰囲気のまま。階段部分に当時の写真などが飾ってあり、往時を偲ぶことができる。

海岸線を変えてしまった急速な発展

 ところで、今や古典的作品となった『慕情』には、別の楽しみ方もある。香港の最近の発展ぶりを確かめることだ。二人の恋物語を引き立てるために随所で映し出された香港の光景が、いかに時代離れしたものであることか。当時の写真と見比べると、あまりの変化に驚かされる。
 香港島や九龍半島は、埋め立てによって海岸線を沖合に押し出し、ヴィクトリア・ピークをはじめとする山々を切り開いてビルを建てることによって、発展を遂げてきた。市街地は海辺の小屋に始まり、木造住宅から低層ビル、さらに高層ビル、超高層ビルへと、まるで発展の度合いを示す棒グラフのように背丈を伸ばしてきた。
 フィルムが伝えるヴィクトリア港はいかにも広々としている。波止場には、今は観光用以外には滅多にお目にかからなくなった、ジャンクがひしめきあっている。ヴィクトリア・ピークも緑の山肌をさらしている。山頂からの眺望も、今とは比べ物にならないほど自然に満ち満ちていた。見る者を甘美な世界に誘う効果は抜群だった。現在のような、超過密都市の光景ではロマンチックなストーリーもつや消しになってしまうかも知れない。

チャイナドレスと香港の将来

 また、この映画の魅力の一つは、スーイン役のジェニファー・ジョーンズが中国服を22回も着替え、優雅に着こなすところにあった。中国服はいずれもハリウッドの名デザイナー、チャールス・ルメイアの会心作で、1955年のアカデミー賞で色彩衣装デザイン賞を受けている。マークが最初に出会ったとき「中国服姿が素敵だ」と褒めたのを心に留めたスーインが、デートのたびに中国服に身を包んだのだった。この中国服姿の女性も、今日の香港の往来ではめったにお目に掛かれない。裏通りなどで年老いた女性が黒系統の地味な中国服を着ている姿を見掛けるが、スーインのようにカラフルなチャイナドレスはナイトクラブにでも行かなければ見ることができない。日本女性の着物姿と似たような現状だ。
 そもそも『慕情』では、スーインが混血であることを強く意識し、マークとの恋をめぐっては勤務先の院長らから「狭い町で不倫は人目に付く」と再三、忠告を受けながら、それを振り切ってマークとの愛に生きようとする姿がテーマの一つだ。
 これも植民地支配者である英国人が狭い特権社会を形成し、中国人を抑圧しながら生活していた当時の香港の実情を理解しないと、切実感が伝わってこない。国際都市として人口が激増し、中国人からも多数の富裕層が誕生している今、中国人と英国人との混血であることを理由にコンプレックスを感じる場面は少ないだろうし、他人の不倫を気に留め、騒ぎ出す香港人も存在しないだろう。
 しかし、再び中国に戻った香港では今後、混血や不倫はどのように扱われていくのだろうか。『慕情』を巡る旅の終わりに、ふとそんな思いが心に浮かんだ。